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サティ(、:スムリティ)は、特定の物事を心に(常に)留めておくことであり、漢訳で念(ねん)、英語でのmindfulness(マインドフルネス)はsatiから仏教的要素を除いたものであるが、仏教の実践において「正念」(しょうねん、sammā-sati)とは、八正道(はっしょうどう)の一つとして重視される。正しい念は、三十七道品のなかの四念住(しねんじゅう)などにおける「念」とあるように、基本概念の一つである。対象に執着あるい嫌悪などの価値判断を加えることなく、中立的な立場で注意を払うことを意味し、仏教における瞑想の基礎的な技術の一つであり、念を深めると心が固定され、何事にも惑わされない定(じょう)の状態に至るとされる。 上座部仏教のヴィパッサナー瞑想の一系統であるマハシ系の瞑想法では、気づきと訳されるが、これは念の英語訳であるmindfullを日本語の「気をつける」「注意する」に訳したものである。ただし、観行であるヴィパッサナー瞑想と、止行であるサマタ瞑想における念の役割は微妙異なるので、その訳にもニュアンスの違いがある。 ==説明== サティとは特定のことに常に意識を止めておくことである。ただし、その特定のことに執着するあるいは、嫌悪の対象として押し戻すように対峙するのではなく、中立的な状態で価値判断を加えることなく、意識を対象物に止めておくことである。また、常に意識を対象物に止めることで、意識の対象物に対する注意が途切れるということや、他の事に気が迷い別のことに意識が向かうこともなく、経つ時間を忘れるということもないとされる。 念が深まると意識が完全に固定され動かなくなる定(じょう)にいたり、三昧(さんまい、サマーディ)の境地に入る。この三昧の境地は光悦感が伴い、釈迦は出家後に当時の数々の聖人の元で修行した時には、この念・定・三昧を非常に短期間で習得している。ただし、釈迦はこの光悦感がどれほど高次であろうとも最終的にはその光悦は一時的なものに過ぎないと知ることにより、釈迦これらの聖人達の下から離れて自ら苦行の道に進む。最後にこの苦行にも見切りをつけて菩提樹の下で瞑想するにあたり、まず最高位の三昧の境地に入った後、定の状態からその意識を森羅万象の変化に向けることによって観(かん)を得て、釈迦は悟りにいたっている。 サマタ瞑想(止)の意識の対象は40程にあたり、息などの生理現象などから、仏・法・僧や戒、神々、また喜捨することを心に浮かべてそれに集中することも「念」という。例えば、仏を心に想起してこれに集中することは「仏随念」あるいは「念仏」(buddhānusmṛti)という。これらの6つの念じる対象を特に六念処と呼ぶ。 チベット仏教では、止を先に実践し最高位の状態へと至ってから、観の修行に入る。観を実践するだけであれば、途中の段階の止の能力にて実践することができる。 対して、近年で特に欧米で広く広まったヴィパッサナー瞑想では、この念の対象を40程のサマタ瞑想の伝統的な対象物でなく、最初から物事の変化に向けるため、念を深めて定に至っても三昧の境地に入ることはできない。また、念の対象を常に変化する現象に向けるため、変化に連続的に「気づく」という意味となるが、サマサ瞑想の場合は対象物が固定されているので「気に留める」あるいは「意識を固定する」という意味で「念ずる」が適切な訳となる。念の途中で「気づく」たびに三昧から抜けてしまうという意味では念の訳として「気づく」は適さない。ヴィパッサナー瞑想ではサティとは、「今の瞬間に生じる、あらゆる事柄に注意を向けて、中立的によく観察し、今・ここに気づいている」ことであるとされる。この様な観行にいたる境地と止行により至る境地の違いが現れる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「サティ (仏教)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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